アスター(紫)



パラリ。
沈黙を破るのは紙をめくる音のみ。
口を閉じてからそう長くは経っていないはずだが、土方はかれこれ数時間も沈黙が続いているような苦痛を感じた。
「で?」
目を通し終えた書類に署名を書き入れながら男がようやく口を開く。
「お前のいう旅館やそこの主がどれだけ素晴らしいかは興味がねぇ。聞いた限りうちが出してる援助金自体も些末な金額だ」
めくっていた紙束を元に戻して傍らに立つ金髪の女に向けて差し出しながら男が土方を見据えた。
長めに伸ばされた前髪の下には眼帯があり、一つだけの瞳がまっすぐ自分をとらえたことに土方は思わず怯みそうになる。
それを堪えながら「だったら!」と男に詰め寄りかけるがそれを遮るように「だとしても」と男が言葉を発した。
「無駄な資金提供はしない。今時、小学生でもわかる経営方針だろうが」
男の言うことは正しい。
土方は言葉を失って唇を噛む。
勤め先の旅館にされていた資金援助が打ち止めになるかもしれないと旅館の主である近藤から聞かされたのが今朝の話。
土方が勤める旅館は都内から一時間ほどの山中にあり、それなりに客入りもよく採算もとれている。
しかし、それもこれも銀行からの融資があるからこそであり、その銀行が山奥にある小さな旅館なんぞに多額の融資をしてくれているのは、旅館が世界的にも有名なグループ企業から援助を受けており、融資をしても不良債権とならないだろうと見込んでくれたからだ。
もしそこからの援助金が止められたとなれば、銀行は債権回収が難しいのではないかと旅館に目をつけるかもしれない。
土方はそう考え、援助金の打ち切りを考え直してもらおうと援助元であるここを訪れた。
ここは外食産業やホテル経営、貿易事業、医療サービスにまで手広く行っている鬼兵隊グループの東京本社であり、かつそのグループ総帥である男、高杉晋助の仕事部屋である。
そこに東京の片隅にある旅館の援助を続けて欲しいと直訴するなど通常であれば受け入れられるわけがない。
土方もそれは解っていたが、少しばかりの期待もあった。
高杉は視察で何度か近藤の旅館を訪れており、土方も彼と直接言葉を交わしたことがある。
そのことを高杉が覚えているのではないか。
小さな期待を抱いて部屋へと入って旅館名を告げたが、高杉から向けられた怪訝な眼差しと「どこだそれは」という言葉によって全ての期待を打ち砕かれた。
覚えていないのであればと思い付くばかりの旅館の良い所や主である近藤の素晴らしさを挙げてみたが、高杉が不機嫌そうに眉根を寄せたままで土方の言葉に心を動かされたという様子は見られない。
やはり無駄足だったか。
土方がそう内心で嘆息をつき、高杉に向けて「仕事の邪魔をして申し訳なかった」と頭を下げる。
顔を上げて踵を返そうとしたところで「待て」と高杉から声をかけられた。
「今からいう条件をお前が飲むなら援助を打ち切らず継続してやってもいい」
振り返った先の高杉が述べた言葉に土方は目を丸くし「本当ですか!?」と高杉へと少し距離を縮める。
「あぁ。ただしこれが飲めねぇなら一切援助する気はねぇ」
「俺にできることなら何でも構いません。下働きでも皿洗いでも給料なしでもいいです」
「そうかい。なら決まりだな。今日からお前ェは俺の妻だ」
発せられた言葉の内容がすぐに理解できなかった土方は「は?」と思わず声を漏らし、高杉に向けて「もう一度、仰っていただけませんか?」と尋ねる。
「今日からお前ェが俺の妻になること。それが条件だ」
しっかりと言い直されたため、土方の脳裏に浮かんでいた自分の聞き間違いだという選択肢は消えた。
「あのぉ、高杉さん。俺が女に見えてるわけじゃ、ないですよね?」
ないとは思いつつも一応、確認のために他の選択肢も尋ねてみたが高杉から返された「あぁ。お前はどう見ても男だ」という答えによってそれも消える。
「だったら、どうして?」
「俺がどれだけ結婚する気はないといっても親戚連中が見合いをしろ、うちの娘はどうかと鬱陶しい。お前を妻として迎えればそれもなくなるだろう」
確かに誰かを妻にすれば見合いを強要されることはないかもしれない。
しかしそれは土方でなくてもいいはずだ。
「あのぉ、俺じゃなくて他の女じゃダメなんスか?」
「普通の女だと本当に妻になれると勘違いされて後々面倒だ」
「じゃぁそっちの秘書の人とか…」
隣に立つ金髪の女に目を向けると「私は無理っス!」と首を振られた。
「私はうるさいじいさん達に顔を知られてるし立場を弁えろってクビになるかもしれないっス」
彼女の言葉を聞き終えたあと、土方は反対側の位置で控えている長身の男へと視線を向ける。
「拙者でござるか?そんなこと頼まれたら即座にここを辞めるでござるよ」
サングラスの奥の瞳はよく見えないが、明らかに嫌がっているようだった。
土方が男に向けていた視線を高杉へと戻すと、ゆっくりと高杉の口角が上がる。
「まぁ俺も無理にとは言わねぇ。嫌ならこの話も援助の話もなしだ」
先ほどの笑みは土方が何と答えるか解っていて浮かべた笑みなのだろう。
それに逆らいたい気持ちはありつつも、朗らかな笑顔で嬉しそうに客を出迎える近藤の顔が浮かび、土方は「わかった。条件を飲む」と項垂れた。
すると高杉は立ち上がり、女からスーツのジャケットを受け取りながら「ついて来い」と土方へ声をかける。
「どこにですか?」
近づいてきた高杉が腕をとって歩き出したため、土方も足を動かしながら尋ねる。
「来ればわかる。それと敬語はやめろ。仮にも俺の妻だ。不審がられる。俺の呼び方も晋助に。それが無理ならせめて高杉と呼び捨てにしろ」
矢継ぎ早に告げられる命令とも言うべき要望に土方は思わず眉間に皺を寄せかけるが、文句を言える立場ではないと思い直して「わかった」と口にする。
了承の言葉を返したというのに、高杉は「不満そうだな」とニヤニヤと口もとに笑みを浮かべて土方をみやった。
「嫌なら別にいいんだぜ?このまま勝手に帰ってくれてもよ」
「ちゃんとやるって言ってんだろうが!」
思わず土方が高杉を怒鳴り付けると、廊下を歩く他の社員たちが驚いた顔をし、中には怯えたような顔をしてこちらを見ている者までいた。
高杉はここのトップであり、それを怒鳴り付けるなど不味かったなと土方はすぐに後悔をしたが、高杉の方は特に気にしていないらしく、喉奥で笑い声を立てている。
「そんな感じでこれからも頼むぜ、十四郎」
笑いながらそう告げたかと思うと、高杉は唐突に土方の裏首筋に手を回し力を込めた。
背後からかけられた力に逆らうことができなかった土方はそのまま高杉へと近づくことになり、驚く間もなく唇を高杉のもので塞がれる。
ようやく高杉から口づけられているのだと脳で理解し、高杉を引き剥がそうと高杉の肩に手を置くが、土方が腕に力を入れる前に高杉の腕が腰を強く抱き締めて抵抗を抑えられてしまった。
土方が身動きできないのを良いことに高杉は口づけを深め、土方は好き勝手に蠢く高杉の舌が口内を出ていくのを辛抱強く待つ。
その後、ゆっくりと高杉が離れていったため、土方は解放された自身の唇を手の甲で拭いながら「こういうのも条件のうちなのか?」と睨み付けた。
「あぁ。人前ではな。だからキスされたらもっと嬉しそうな顔しろ。今日からそれだけがお前の仕事だ」
高杉が強調した"それだけ"という言葉が気にかかったが、その意味はすぐに解ることとなった。
ついて来いと言った高杉が向かったのは土方が働く旅館。
そこで高杉は近藤に旅館への資金援助の継続と土方を借り受けたい旨を告げる。
近藤は高杉が土方を借り受けるということに怪訝そうであったが、土方自身が大丈夫だからと近藤を説得し、しばらくの間だけ旅館の仕事を休むことが許された。
そのため土方は生活の全てを高杉とともに過ごし、かつ高杉の望むように振る舞うことだけが仕事になったのだ。
その後、職場である旅館から高杉の家へとつれてこられた土方は、まず高杉に伴われて執事やメイド長に妻として挨拶をさせられた。
頬が不自然にひきつりそうになのを堪えながらも土方は彼らに向けて笑みを浮かべ、家へと向かう道すがら高杉にいわれた言葉を反芻する。
『いいか。家に入ったら一瞬たりとも油断するな。全員からスパイされてる気持ちで妻になりきれ』
高杉が言うには屋敷の使用人の中に高杉をよく思っていない親戚と繋がっている人間が多数いるらしい。
それを聞いた土方はこれからの生活を憂いつつ、脳裏に浮かんだ言葉をそのまま高杉へと伝える。
『そんな休まらない家、とっと出ちまえよ』
土方が告げた言葉に高杉は一瞬、顔を固まらせたあと『そうだな』とだけ告げ視線を窓の外へと向けて黙り込んだ。
そのため車内が沈黙で満たされてしまい、高杉専属の運転手である武市と会社にいた金髪の女、また子が場を取り繕うように高杉へと話しかけたが高杉はいっさい返事をしない。
そのため二人は土方へと話しかけてきたが、先ほどの高杉の態度が気にかかり、土方はろくな返事もできないまま家へとついてしまった。
仕事へと戻った高杉の代わりに、また子から家の説明を受けている間も車内でのことが引っかかり、土方は前を歩くまた子へ「なぁ」と声をかける。
「何スか?」
「さっき、なんかまずいこと言ったか?」
「さっきっていつっス?」
「車の中で高杉いきなり黙り込んだだろ?」
「あぁ、あれっスか」
また子はそう言って振り返っていた顔を前へと向けて少し俯かせながら歩き始める。
その後へと続きながら土方はまた子からの言葉を待った。
「晋助様は高杉家の一人息子でグループを背負って立つお方っス。でもまだお若いから古くからグループに関わっている人たちは晋助様の粗を探してそれを理由に自分が後見になろうと必死なんスよね。だから家を出たりしたらそんな人たちに責任感がないとか勝手だと謗りを受けることになるから出来ないんス」
ポツポツと悲しげに話すまた子に土方は顔を強ばらせていた高杉の表情を思い出す。
確か高杉の年齢は土方と同じで今年25歳になったばかり。
そんな年齢で世界的にも名のあるグループを背負うのは想像もつかないほどの重責だろう。
そんなことも知らずに家を出ればいいなど、ずいぶんと無責任なことを言ってしまったなと土方は自分の発言を少し悔いる。
しかし、その数時間後には高杉の生い立ちを憂いた自分を悔いながら、使用人たちからの困惑した視線を一身に浴びていた。
土方が家に帰ってきた高杉を執事やメイドたちと一緒に出迎えると、高杉は真っ先に土方の元へと近づき「ただいま」と笑みを浮かべながら頬といわず顔中に口づけをし始めたのだ。
突然のことながら妻として我慢すべき場なのだろうと土方がぎこちない笑みを浮かべながら「お帰り」と返すとそのまま唇を塞がれた。
2度目ともなれば深い口づけも許せるかといえば、決してそういうわけではなく、今すぐにも殴り飛ばしたい気持ちを抑えながら、土方は高杉の背に腕を回す。
長い口づけを交わす間、使用人たちはどうしようかと戸惑いつつも口づけが終わるのを待っているのか高杉と土方へと視線を送ってきた。
その視線に耐えきれず土方が高杉の背中に回していた手でジャケットを握ると、ようやく口づけを終わらせてくれる。
「旦那様」
ここぞとばかりに声をかけてきた執事に「飯はいらねぇ」と返した高杉は土方の腕をとって歩き出した。
「ちょ、高杉。なんで飯くわねぇんだよ。せっかく待ってたのに」
腕を引かれながら土方は高杉に声をかける。
すると高杉は足を止めて「待ってた?」と怪訝な顔を浮かべた。
「夕飯は先に食べろって来島に伝えただろ」
「それは聞いたけど。遅いのかって聞いたら今日はそんなに遅くないはずだってまた子も言ってたし」
視線を合わせてそう話していると執事が傍らへ立ち「お二人のお食事はすぐにご用意できますから」と声をかけてきた。
執事の言葉に高杉は深いため息をついたかと思うと「俺は酒だけでいい」と告げて再び土方の腕を引いて歩き出す。
玄関フロアから食堂へと移動すると、待ちかねていたというように給仕が出迎えてくれた。
その出迎えを受けつつ土方が席へつこうとすると給仕に椅子を引かれたため、少し困惑しながら椅子へと腰掛ける。
皿の上に綺麗に形作られた布巾を手にした給仕が膝へと敷いてくれるのを土方が見つめていると、すぐに他の給仕が土方の傍らに立ち、ワインは何にするかと尋ねてきた。
解らないから高杉に聞いてくれと言うと向かいに座っている高杉がよく解らない名前を告げ、それを聞いた給仕は一礼をして去っていく。
自宅であるはずなのに高級ホテルで食事をしているような落ち着かない気分を土方が味わっていると、高杉がどこからか書類を取り出した。
「仕事か?」
「あぁ」
その言葉に高杉が夕食を断ったのは早く仕事にかかりたかったからだと理解した土方は「悪い」と慌てて謝る。
「何がだよ」
「忙しいなら俺のことは気にせず部屋で仕事してくれ」
「別にこれは急ぎの仕事じゃねぇが?」
怪訝そうにこちらを見やる高杉に土方の方も怪訝に思いながら高杉を見返す。
「じゃぁなんで今ここで仕事しようとすんだよ」
「なんで?」
土方の言葉を繰り返した高杉は、少し考える様子を見せたあと、視線を土方へと戻した。
「食卓ではこうするのが日常だから特に理由なんてねぇ」
「日常?書類見ながらじゃ飯が食べにくいだろ?」
「ここへは酒を飲みにくるだけで飯なんざ食わねぇ」
高杉がそう言って再び視線を書類へと戻すのを土方は驚きの目で見つめつつ「夕飯はどこで食うんだよ」と尋ねる。
「だから飯は食わないって言ってんだろ?」
「食わないって一切?」
「あぁ。家では食わねぇ。接待がある時は仕方なく食うけどな」
「朝食は?」
「コーヒー」
「昼食は?」
「サプリメントと栄養補助食品」
書類から視線を外すことなく即答された言葉を聞いた土方は席を立って厨房に向けて声を張り上げる。
「さっきの酒はキャンセル!こいつにもちゃんとした夕食持ってきてくれ」
「あぁ?てめぇ。何勝手なことしてやがる」
高杉がようやく書類から視線を上げたため、見つめ合う形になったが、高杉も土方も互いを睨みつけているために緊迫感が部屋を覆った。
「勝手だぁ?お前こそ、どんだけ身勝手な生活してんだよ。よくそれで生きてられるな」
「ちゃんと栄養はサプリでとってんだから文句ねぇだろ」
「サプリメントの意味知ってるか?規則正しい食生活があって、それでも採れないもんを補うためにサプリメントを飲むんだよ!」
土方がそう怒鳴りつけたところで恐る恐るというように給仕が二人分のスープが乗せられたカートを運んできた。
「前菜の空豆のスープですが、奥様の仰るとおり旦那様の分もお持ちいたしました」
給仕の言葉に高杉が小さく舌打ちをしたため、給仕は身体を震わせたが「置いておけ」という高杉の言葉にホッとした顔で「かしこまりました」と頭を下げ大皿の上にスープ皿を乗せた。
同じように土方の前にも置かれたそれを目で確認した後、土方は高杉の手から書類を奪い取る。
「少しでも食べるまでこれは没収だ」
土方がそう言うと高杉は深いため息をつきつつもスプーンをとりスープを口にした。
それを見て土方も食事を始めようとしたが、高杉の背後で目を潤ませながらハンカチをつかんでいる執事に気づき目が釘付けになってしまう。
「あの、どうされたんですか?」
黙っていられず執事にそう尋ねると執事はハンカチで目頭を押さえながら「申し訳ありません。何だか胸がいっぱいになってしまいまして」と顔を背けた。
「え?胸がいっぱいって、なぜ?」
「旦那様は偏食気味でほとんど食事をなされないのです。常日頃、お身体を壊されないか心配しておりましたが今日こうして食事をされているのを見て安堵のあまり涙が・・・。料理長も作ったものを旦那様が召し上がられたと聞けば泣いて喜ぶと思いますよ」
そう話す執事から高杉へと視線を移せば、高杉は執事の言葉などまるで気にしていないかのように平然とスープを口に運んでいる。
「お前、どれだけの人間に迷惑かけて生きてんだよ・・・」
「こいつらは仕事の延長として勝手に憂いているだけだ。俺には関係ない」
そうはっきりと言い放った高杉に土方は「贅沢な奴」と告げてスープを口に運び始める。
目の端に車内で見せたときと同じ顔を高杉がしたようにも思えたが、今度は土方も気にすることはなかった。
土方と高杉の生活環境は重なるところがないと言っていいほど異なっている。
これほど生まれや送る生活が違えば価値観や習慣が違って当然だ。
土方にはとても優しい味のするスープも、目の前で憮然としながらそれを口にする高杉には違う味がしているのかもしれない。
もしそうであるならば、これから先も高杉とは決して解りあえることはないだろう。
そう内心で思いつつ、土方は黙って食事する手を進める。
前菜の後に出された主菜は豆腐と鳥そぼろで作られたハンバーグであり、上からかけられていた和風だしで作られたあんかけが絶品であった。
スープもハンバーグも高杉は少ししか口にしなかったがこれらを作った料理人はきっと満足をしているに違いない。
食材や調理法、味付けの全てにわたって胃に優しいものばかりで、どうみても食事をしない高杉を気遣ってのメニューだった。
高杉の身体を気遣い、高杉のためだけに用意された食事。
高杉のいうようにそれが料理人の仕事なのかもしれない。
しかし生まれたときから傍らにそんな仕事を請け負ってくれる人間がいて、何不自由なく過ごし、彼らの心配を自分とは関係ないものだと自信ありげに切り捨てることは土方にしたら贅沢以外の何物でもない。
土方は物心つく前に母を亡くし、母方の親戚を転々として生きてきた。
結婚することなく土方を生んだ母親は親戚の中でもいい印象はなく、その子供である土方への待遇はどの家も変わらず冷たいものだった。
食事も最低限のものしか用意されず、風呂場で自分の衣服を洗い、部屋の片隅で他の家族の邪魔とならないよう必死に息を殺して眠りにつかねばならない生活。
子供の頃からその生活の繰り返しであった土方にとって、たとえ親戚に監視されているとは言っても高杉の生活は恵まれたものにみえた。
これは土方の価値観であり、高杉には高杉の感じ方があるだろうから強要するつもりはない。
しかし気に食わないものは気に食わないのだ。
食事を進めるうちに土方も高杉と同じように、どんどんとしかめ面へとなっていった。
そのため互いに終始無言で食事を終え、土方は部屋へ戻ろうと立ち上がりつつ給仕たちに礼儀として「ごちそうさま」と言葉をかける。
そのまま高杉に一瞥もくれずに食事場所から立ち去りかけるが、その腕を高杉によって掴まれた。
「何だよ」
振り向きざま高杉を睨みつつそう尋ねると、高杉も土方と負けず劣らず不機嫌そうな顔をしている。
「どこへ行く」
「部屋に帰るんだよ。心優しい旦那様が用意してくれた自分の部屋にな」
土方が嫌みを込めて高杉のことを心優しいと評すると、高杉は正確に皮肉だと受け取ったようだった。
その証拠に先ほどはうっすらとしかなかったはずの眉間の皺が深くなっている。
土方はそれを間近で見ながら「手を離せ」と掴まれていた腕に力を込めながら自身の元へと引こうとした。
しかしそれは許されず、高杉が握る力を強くしたため腕にギリリと痛みが走る。
その痛みに土方は顔を歪めたが、高杉は気にした様子もなく「何が気に入らねぇ」と声に苛立ちを含めながら言葉を発した。
「俺はお前ェの望むように、仕事もせず、酒も飲まず、食いたくもない飯を食べただろうが」
食べなくもない飯。
料理人の気遣いなどやはり高杉には全く通じていなかった。
高杉が口にした言葉からそれが解った土方は自分でも理解できないほど頭に血が上るのを感じる。
「悪かったな!無理に食べさせて!金輪際、お前に飯を食べろとは言わねぇ!これでいいだろ!?」
「そんなことは言ってねぇ。お前ェが仏頂面してる理由を俺は聞いてんだよ」
「言ってもお前にはわかんねぇよ!俺とお前は生きてる世界が全然違う!絶対に解りあえるはずがねぇ!」
そう叫ぶように告げた瞬間、脳が横へ大きく揺れるような衝撃を土方は感じる。
土方はその衝撃にフラリと身体をよろめかせたあと、だんだんと熱を持ち始めた自身の頬のおかげでようやく何が起こったのか理解できた。
高杉が思い切り土方の頬を平手で殴ったのだ。
「だ、旦那様」
執事が慌てた様子で近寄ってくるのを高杉は視線だけで足を止めさせる。
そんな高杉を土方は殴られた頬を高杉に掴まれていない方の手で押さえながら高杉を睨みつけた。
高杉の身長は土方よりも少し低く、目線も土方より高杉の方が低いはずだが、高杉が土方の首を押さえ込んでいるせいでギラギラと暗い激情を秘めた隻眼が土方の瞳の真正面に迫る。
「てめぇは俺の妻だ。二度と解りあえないなんて言うじゃねぇ。いいな?」
高杉から求められているのは了承の言葉のみだというのは土方にもわかった。
しかしそれを素直に認めることは土方のプライドが許さず、黙ったまま高杉を睨み続ける。
「いい度胸だな。泣きながら詫びさせたくなる」
そう言って高杉は土方の首を押さえつけながら顔を近づけて来た。
口づけをしようとする高杉の意図を察した土方はそれを避けようと顔を動かしたが親指で強く顎を固定されてしまい、そのまま受け入れることとなる。
口づけは一向に終わらず、それどころか土方の腕を掴んでいたはずの高杉の腕が放され、土方が身につけていた薄手のシャツをズボンから引き抜き手を差し入れてきた。
驚いた土方は目を見開き高杉の腕を押さえようとするが、首への締め付けがきつくなり伸ばした手が力なく落ちる。
苦しさのあまり息を吸い込もうと塞がれている唇を震わせると、高杉が口づけをやめた。
解放されるのかと期待したが、高杉は土方の方を見てはおらず、背後に向けて「てめぇら出ていけ」と告げていた。
「え、しかし」
「聞こえなかったのか?さっさとここから出ていけ。当分、ここに誰も近づくんじゃねぇぞ」
そう言い捨てると高杉は再び土方へと向きなおり、片手で素早く土方のベルトを外してスラックスと下着を脱がせたかと思うと、突然、首を押さえていた手を離す。
ようやく取り込めた空気を土方が必死になって吸い込んでいると、高杉は土方の身体を反転させ顔を壁へと押し付けるように固定した。
息を整える暇もないまま高杉の物で身体を貫かれた土方は感じたとのない痛みと圧迫感から、ただでさえ空気が足りていないというのに思わず息をつめる。
しかしすぐに身体に空気を取り込むために呼吸を再開させ、うっすらと水気で滲んだ瞳を瞼で隠しながら顔を俯かせて痛みを逃がそうと呼吸を整え始めた。
それもつかの間、高杉が土方の内部に納めた物を動かしはじめたため、またもや身体を堅くする。
「た、かすぎ、いた、い」
痛みと恐慌で歯が上手くかみ合わず、言葉とともにガチガチと音が鳴る。
そんな土方に高杉が唇を合わせながら「だろうな」と言葉を漏らす。
「俺も痛ェ」
「だ、たら、」
だったら抜いてくれと伝えようとする土方の唇は上手く動かなかったが、高杉は意図を理解したようで「断る」と告げて土方の顎を掴んで振り向かせ、唇を合わせながら空気でも送るように言葉をかけてくる。
「お前ェは俺の妻だろうが。二度と俺を突き放すような言葉を吐くんじゃねぇ」
高杉が告げてきた言葉の意味を考える前に高杉の舌が土方の口内へと入り込んでくる。
与えられた口づけは先ほどと同じく深いものであったが、呼吸を奪うというには優しく、宥めるかのように穏やかで、それでいて何かに縋るかのように熱のこもったものだった。

✳✳✳

うっすらと自身の意識が浮上するのを感じた土方は寝返りをうとうと身じろいだが、すぐに身体の一部分が酷く痛むせいで中途半端な体勢のまま固まる。
「高杉の野郎・・・」
思わず口から発した恨み言も声がかすれているせいではっきりと紡ぐことができない。
昨日食堂で高杉に襲われた後、体液で汚れた身体を洗うために引きずるように風呂場へと連れていかれ、中に残された高杉の精液を掻き出している最中にまたもや襲われ、ベッドへ移された後もさんざんつき合わされた。
最初は痛みで意識が飛びそうだった行為も、二度目、三度目の際にはゆっくりと土方の反応を楽しむように行われ、最後には泣きながら高杉のものをねだった記憶が土方の脳裏にかすかに残っている。
声が出せないため、心中で高杉への悪態や雑言を限りなく並べ立てながらゆっくりと身体をベッドへと戻していると、部屋の扉が開いた。
「なんだ。起きたのか。さっさとそこから出ろ。もう昼食の時間だぞ。お前は食べるんだろ?」
そう言いながら部屋へと入ってきた高杉を枕に顔を預けながら睨みつける。
「てめぇ、どの面下げてそんなこと言いやがるんだよ」
しわがれた声で半ば憎しみすら込めて土方がそう言うと高杉は怪訝そうに土方を見やり、視線を土方の身体全体へと向けつつ「あぁ」と納得したかのような声で呟く。
「動けねぇのか」
それだけ言うと高杉はきびすを返してそのまま部屋を出ていった。
薄情にも動けない土方に見切りをつけた高杉に小さく舌打ちをした土方は、どうせなら今日はここで寝て過ごそうと瞳を閉じる。
特に眠くはなかったが、動きたくとも一人では身体を動かせそうもないので仕方がない。
しばらくそうしていると「なんだ、寝るのか?」と再び高杉の声が聞こえた。
今度は何をしに来たのかと土方が高杉へ意識を向ける前に、コンソメと小麦のいい香りが土方の鼻をくすぐる。
その匂いにつられたわけではないが、瞼を開いて高杉の姿を確認すると、トレイを片手に持った高杉が土方の傍らの椅子に腰掛けた。
トレイをベッドサイドの机に置いた高杉は土方へ視線を向けつつ「ポトフとフランスパンだ。食べるか?」と尋ねてくる。
「動けねぇって言ってんだろ?」
「俺は食べるのか食べないのか聞いてる。腹減ってるのか?」
身体の節々は痛いが胃腸には何の異常もなさそうであり、現に間近にある美味しそうな匂いに今にも腹の虫が声を上げそうだった。
そのため土方は少し迷った後で一言「減ってる」と小さく告げる。
すると高杉は土方へと近づき覆い被さってきた。
その行動に土方が思わず身体を堅くして「何だよ」と問いかけると、高杉は「勘違いするな」とかすかに眉根を寄せる。
それでも土方は警戒を解くことは出来なかったが、高杉は黙って土方の背中と太股へと両腕を差し入れて少し位置を動かし、土方の背中を支えつつ壁との間に枕を挟んだ。
「これでいいだろ」
高杉の言葉にようやく高杉が起きあがるのに手を貸してくれただけだと解り、土方はホッと息をつく。
その間に高杉はベッド用のテーブルを立てかけ、土方の胸元近くまで動かすとそこにトレイを乗せた。
至れり尽くせりの高杉の行動を少し不審に思いつつも敢えて指摘して気分を害させて揉めるのも面倒だと土方は目の前の食事に手を合わせる。
「いただきます」
一声かけて食べ始めた土方を高杉はジッと視線を逸らすことなく見つめ続けていた。
最初は気にしないで食事をしていた土方だったが、その視線に耐えきれなくなり、口に運ぶために小さくちぎっていたパンをいったん小皿へと戻して「何だよ」と高杉へ問いかける。
「別に」
「別にってずっとこっち見てるだろ?」
「見ちゃいけねぇ理由でもあんのかよ」
「見なきゃいけねぇ理由もねぇだろうが」
「自分の嫁が美味そうに飯を食ってるのを見ながら体調は大丈夫なのか判別している。妻の体調管理は夫の仕事だ」
高杉の言葉を土方は鼻先で笑い飛ばして小皿に置いていたパンを再び手に取る。
「俺が体調不良だとしたらその原因の全てはてめぇだ」
暗に昨日のことを指して責め立てると、高杉は悪びれた様子もなく「だからお前を見てる」と返された。
意味が分からず土方が怪訝な視線を高杉へと向けると高杉は口の端を持ち上げて笑みを作りながら土方と視線を合わせる。
「俺にはお前の異常を確認する義務がある。それがお前を見なきゃならねぇ理由だ」
言ったことを上手く利用されてしまった土方は、憮然としながら高杉へ向けていた視線を食事へと戻す。
しかし内心では高杉が言った言葉に対する不満が渦巻いていた。
高杉は“妻の体調管理は夫の仕事だ”と言ったが、昨日自分が高杉の体調を気にして食事をしろと言ったら臍を曲げたではないか。
そんな不満を脳内でぶつぶつ繰り返していると傍らの高杉が「不服そうな顔してるな」と声をかけてきた。
それでも昨日と同じ轍を踏むつもりはなく「別に」とだけ返す。
土方の答えに対して高杉が何か言ってくるかと思ったが、咎めるような言葉は向けられずただ沈黙が流れた。
その沈黙も高杉が「悪かったな」と小さく発したために突然の終わりを迎える。
高杉は土方の傍らに腰を下ろしているため少し声を潜めたぐらいの言葉であれば聞き逃すことはありえない。
しかし高杉が口にした言葉が土方には謝罪に聞こえた気がした。
高杉と一緒に過ごしたのは昨日一日だけではあったが、高杉の人となりはそれなりに把握したつもりでいる。
その高杉が土方に向けて謝るなど起こり得ないことだ。
土方は先ほど聞こえた言葉は気のせいだと聞き流すことにして黙ったままパンを口に運ぶ。
すると高杉はそっと土方の頬へと手を伸ばして親指でそこを撫でた。
少し力を込められたその手に土方は小さく顔を歪める。
そこは昨日、高杉に殴られた箇所であり、きっと今も赤く腫れていることだろう。
だからこそパンをいつも以上に小さくちぎって口に運んでいたというに高杉のせいで痛みを感じてしまった。
それを高杉に告げようと視線を向けると高杉は思いの外、真剣な顔で土方の頬を見つめており土方は口から出すつもりだった言葉を戻してしまう。
「殴るつもりはなかった。すまねぇ」
はっきりと告げられた言葉に土方は目を丸くして高杉をまじまじと凝視した。
それを高杉は怪訝に思ったのか「何だ、その顔は」と頬を撫でながらかすかに眉を顰める。
「いや、お前、もしかして今、俺に謝ってんのか?」
「それ以外にどう聞こえてんだよ」
「いやだって、お前は人に謝りそうにないイメージだったから・・・」
半ば呆けて土方がそう言うと高杉は「他人にはな」と告げて土方の腫れた頬に唇を寄せる。
「妻は別だ」
頬から離れていくさなか囁くように発せられた言葉がなぜか土方を落ち着かない気分にさせた。
確かに土方はここに妻として来ているが、それは仮のものであって高杉にこうしてあれこれと世話を焼かれたり、ましてや特別扱いとして謝罪をされたりする立場ではない。
しかもここは土方の自室であって家の者は他に誰もいないのだ。
収まりのわるい心地になりながら思考を巡らせていた土方だったが、ふと部屋に盗聴機でもあるのかもしれないと思い直す。
そうだとしたら高杉の態度にも納得出来る気がした。
土方を妻だと高杉があくまで主張するのであれば、土方としても言っておかなければならないことがある。
「妻の体調管理が夫の仕事なら、夫の体調管理も妻の仕事じゃねぇのかよ」
先ほどの脳内で不平を漏らしていたことを告げると高杉は一瞬、虚を突かれたような顔をしたがすぐに笑みを浮かべて「そうだな」と同意を示してきた。
「だったら俺にはお前に食事をさせる義務がある。お前にとったらこれも勝手な心配かもしれねぇけどな」
もしかしたら昨夜と同じく機嫌を損ねてしまうかとも思ったが、高杉は穏やかに笑みを浮かべながら土方を見つめ返してくる。
「お前とあいつらは違う。比べるまでもねぇ」
土方には仮の妻である自分より、高杉が食事をしたことをあんなに喜んでいた執事の方がよっぽど高杉のことを心配しているように思えた。
しかし高杉が言い方に言いようのない力強さがあり、反論する気を削がれてしまう。
そのため少し視線を落として半分以上なくなった食事を見つつ「お前は昼食食べたのか?」と高杉に問いかける。
「いや、食ってねぇ」
返された答えに土方は嘆息を吐いてスプーンでポトフの具を掬うと高杉へと差し向ける。
土方の意図を理解した高杉は小さく笑いながらそれを自身の口へと運んだ。
「ちゃんと食べないと頭も働かないぞ」
そう言ってから土方は今更ながらなぜ高杉が平日の昼間に家にいるのだろうかと疑問を抱く。
「お前、仕事はどうしたんだよ」
「万斉に言って今日の分はこっちに運ばせた」
「なんで?」
「言っただろ。お前の体調管理は俺の仕事だ」
そう言ってニヤリと笑った高杉に「そんな理由で仕事を休むなよ」と土方はうなだれた。

✳✳✳

それからというもの、高杉は土方に言われるまま朝食と夕食を口にするようになった。
土方にしてみると量的にずいぶん少なく栄養バランスが気になるところだったが、何も食べないよりはいいだろうと見逃している。
ただ昼食は面倒だからといまだに食べていないと秘書である万斉やまた子から聞かされた土方はどうしたものかと頭を悩ませた。
家に土方の様子を見に来ていたまた子に土方は尋ねる。
「なぁ。もしかして昼食を食べる時間もないぐらい忙しかったりするのか?」
「んー。そうでもないっスよ。晋助様の仕事は決裁がほとんどなんで、手を止める暇もないほど書類が舞い込んできたとかじゃなければちゃんと時間とれるはずっス。私らも一時間ぐらい昼休みあるっスから」
「じゃぁ何で食べないんだよ」
「食べに行くのが億劫らしいっス」
「ケータリングとかは?」
「何を食べるか考えるのも億劫らしいっス」
「ホントどうしようもねぇな、あいつ」
土方は深いため息をつきながら頭を抱えたが不意に「そうだ!」と顔を上げる。
「また子、明日、出勤前にここに寄ってくれねぇか?あ、朝早いから負担になっちまうか」
「大丈夫っスよ。私の家、ここからすぐのアパートっスから」
「そうなのか?」
「私も万斉先輩も何かあったときの為に屋敷の近くに住んでるんス」
「そっか。じゃぁ明日、頼むな」
「了解っス」
元気よく了承してくれたまた子を玄関まで送った後、土方は厨房へと向かう。
厨房へと入ると数人いた料理人が慌てふためき、料理長らしき初老の男が土方の元へと駆け寄ってきた。
「お、奥様。どうされました?」
高杉の家に来てそろそろ1週間ほどが経つが、どれだけたっても使用人たちから男の自分が“奥様”と呼ばれることは慣れそうもないなと土方は苦笑する。
「いや、大したことじゃないんだ。明日の朝、厨房を貸してくれないか?あ、あと冷蔵庫の中の物も少し使いたいんだが」
「何か召し上がりたい物がございましたら、わたくし共がお作りしますが?」
「あぁ、俺が食べるんじゃなくて高杉に弁当持たせようと思ってさ。あいつ、ここではちゃんと食べてるけど、昼間は食べてないらしいんだ」
料理長が困惑したような表情をしていたため、土方はもしかしたら迷惑だったかもしれないと少し不安になる。
「無理だったらいいんだけど、ダメかな?」
「いえ!そういうわけではなく、旦那様にお叱りを受けませんか?」
どうやら彼らは余計なことをして土方がここへ来た初日のような目に遭うのではないかと案じてくれているようだ。
それと同時に土方に厨房を貸したことを高杉から咎められるのではと心配しているのかもしれない。
「大丈夫だ。あいつからあいつの食事管理は俺に任せるって言われてるから」
ヒラヒラと手を振りながらそういうと料理長は「それならば」といまだに少し不安そうではあったが厨房や食材を使うことを承諾してくれた。
そのことにホッとしながら長い廊下を歩いていると執事に呼び止められる。
「奥様が厨房に入られるのを拝見したのですが、どうかされましたか?」
人のよい柔和な顔立ちをしている執事が穏やかな口調で尋ねてきた。
「あぁ。大したことじゃない。高杉に弁当を持たせようと思って厨房を貸してくれって頼んだだけだ」
「お弁当、ですか?」
驚いた顔をする執事に土方は笑みを浮かべながら頷く。
「あいつ、昼間はまた飯を食べてないらしいからさ」
「なるほど。それは良い案ですけれど、大丈夫ですか?」
執事も先ほどの料理長のような表情で土方を見つめてきた。
「大丈夫だ。あいつに食事管理は任せるって言われてるから」
安心してもらおうと土方がそう言うと執事は尚一層、驚いた顔を見せて「そうなのですか」と声を漏らす。
そして小さく笑った。
「奥様が来られてから旦那様は表情豊かになられてわたくしや他の使用人たちもとても嬉しく思っているのですよ」
「そうなんですか」
そう相づちを打ちながら、土方はこの執事のように本当に高杉のことを思っている人たちにことを騙していることを少し心苦しく感じる。
「旦那様とはどこでお知り合いになったのですか?」
「え?」
執事から発せられた質問に土方は驚いて目を見開かせる。
ここへ来た日の翌日、身体が動かず自室で昼食を食べているとき、土方は高杉に神妙な顔で忠告を受けた。
『高杉家の使用人は基本的に当主の行動に異を唱えないよう教育されている。だから俺が良かれと思って連れてきたお前に、馴れ初めや交際期間を聞いてきた奴がいたらそいつはスパイでお前の存在が疑われていると警戒しろ』
高杉の忠告を信じるなら、目の前にいる執事は高杉の親戚のまわしものということになる。
しかし高杉を思うあまりに心配して尋ねてきたということも有り得ないわけではない。
だからといって正直に答える気は土方にはなく小さく首を傾げて「どうしてそんなこと聞くんだ?」と尋ね返した。
「いえ。旦那様があれほど心を許されているので少し興味が湧き無礼を承知でお尋ねしてしまいました。お許しください」
ニコリと笑みを浮かべて頭を下げて去っていく執事の背中を土方はジッと見つめる。
その時に抱いた不信感のようなものは夕食を食べ終わっても消えず土方の胸に残りつづけた。
そのため、最近では日課のようになっていた夕食後に高杉の自室で過ごす際も、土方は机に残務処理をする高杉の前い置かれたソファーの上で本を開いたままぼんやりとしてしまう。
そのせいもあって高杉からすぐに「どうかしたのか?」と尋ねられてしまった。
「あー、いや、何でもない」
「お前は解りやすいから隠そうとしても無駄だ。無意味な掛け合いを俺にさせるんじゃねぇ」
書類をめくりながら辛辣な言葉を吐いてくる高杉に土方は少しムッとしつつも、高杉の言う通りであったためそれに対する反論をせずにおいた。
「執事の金子さんにさ。今日、馴れ初めみたいなの聞かれたんだけど」
躊躇いつつも意を決して土方が昼間のことを告げると、高杉は「あぁ。あいつか」と何でもないことのような口振りで驚く様子は一切なかった。
「何でそんな冷静なんだよ!」
「家のもん全員がスパイだと思えと言っただろうが。あいつだって例外じゃねぇ」
「でもあの人、お前のこと凄く心配してたし」
ここに来た日の出来事を思い出しながら土方がそう言うと高杉が唐突に「今、何時だ?」と尋ねてきた。
「え?今?11時ちょっと過ぎ」
携帯電話で時刻を確認してそのまま高杉に伝えると、高杉は椅子から立ち上がる。
「ついてこい」
そう言って部屋を出ていく高杉の後を、土方は不思議に思いつつもついていく。
たどり着いた先は屋敷の一番端にある部屋で確か鍵が掛かっていて入れない部屋だとまた子から聞いた。
しかし高杉は懐から一本の鍵を取り出して鍵穴に差して回す。
ガチャリという音とともに扉が開くのを土方が驚きをあらわにそれを見つめていると、高杉に腕を引かれて部屋へと足を踏み入れた。
「ここって開かないんじゃなかったのか?」
「そういうことにしてあるだけだ」
そう言って高杉は土方の腕を引きながら部屋の隅へと進み、そこに置かれていたクローゼットの扉を開けて中へと入ろうとする。
「ちょ、お前、何してんの?」
「いいからお前も入れ」
先に入った高杉に腕を引っ張られる形で中へと入った土方は、そのまま扉を閉められて真っ暗闇になったクローゼット内で身を縮ませる。
「何でこんなとこに入るんだよ」
「すぐにわかる」
何も入っていないとはいえ、大人二人が入るにはクローゼットは大きくない。
初日以来、高杉とは何度となく口づけを交わしているが、床を共にすることはなく、いきなり暗闇の中でこれほど密着すると妙に緊張してしまう。
そのせいか少しずつ激しくなってくる動悸を何とか紛らわせようと高杉に向けて再び問いかけようとするがすぐに口を塞がれて抱きしめられてしまった。
余計に触れ合う部分が多くなったことに狼狽えた土方がクローゼットを飛び出す前に、カチャリという音が部屋へと響き、土方の耳にもその音が聞こえてくる。
そのことに驚き高杉に視線を向けると眼差しだけで黙ってろと指示をされ、それに従い息を殺してクローゼットの様子を伺っていると、部屋に入ってきた人物が電話で通話を始めた。
「もしもし。私です。はい。…どうやら坊ちゃんは連れてきた若造に随分とご執心のようで。…えぇ。言われるがまま文句も言わず食事も続けております。この分ですと妻にするというのもあながち嘘ではないかもしれません」
そう話す声に土方には聞き覚えがあった。
しかし今聞こえた声と脳裏に浮かんだ人物を結びつけることを心が拒否してしまう。
そうしている間にその人物の通話は終わり、カチャリという鍵がかけられる音が部屋へと響き、元通りの沈黙が部屋にもクローゼットの中にも訪れた。
しばらくしてクローゼットの扉が土方の背後にいた高杉によって開けられる。
「部屋に戻るぞ」
「高杉。・・・今の、執事の」
「だからあいつも例外じゃねぇって言っただろ?」
高杉はそう言いながら土方の手を引いてクローゼットから引っ張って下ろし、ふらつく土方の身体を抱き止めた。
「とりあえず部屋に戻ろうぜ。話はそれからだ」
土方は信じられない気持ちのまま腕を引かれて執務室へと戻り、何事もなく仕事を始めた高杉を呆然とみやった。
「いちいち気にすんじゃねぇよ。あいつが叔母のスパイだってことは早い段階から解ってたことだ。あの部屋の鍵を持ってんのはあいつだけだしな」
「え?でもさっきお前も」
「あれはあいつが留守中に鍵穴から型をとって作った合い鍵だ」
「で、でも!あの人、お前のことすごい心配して」
「だからそれがあいつの仕事なんだろ?俺のことに親身になって俺の、まぁお前でもいいんだが、心を開かせてつかんだ情報を叔母へと流す。分かりやすいじゃねぇか」
そう話しながら高杉は書類をめくり、時折書きこみをする。
淡々と作業を続ける高杉に土方はかける言葉を探し、小さく「いつも、なのか?」と問いかける。
「あ?お前も見ただろ?あいつはいつもあぁやって」
書類から顔を上げてそう答えてきた高杉を「そうじゃなくて」と遮る。
「いつもそうやってみんなのこと疑ってるのか?」
土方の問いに高杉は視線を書類へと戻しながら「概ねな」と答えて、書類を掴んでいた手を左目の眼帯へと当てた。
「これは、俺がガキの頃、母親にやられたもんだ。あいつは俺の叔父とデキてて俺を殺せば病弱な親父の代わりに叔父を総帥にできるとでも思ったんだろうな。それ以来、俺は家族とやらを信用しねぇようにしてる」
そう言って左目から手を離して再び書類を掴もうとする高杉の傍らに土方は立つ。
そしてそっと腕を伸ばして高杉の頭を胸に抱き込んだ。
「何のマネだ」
「何でもねぇよ。気にすんな」
「気になるだろ。これじゃ仕事が」
できないと続くはずの言葉は高杉の口から発せられることはなく、「まぁいいか」というものへと変わる。
土方は高杉のことを意味もなく周囲の人間を疑い、向けられる心遣いを見ようともしない男だと思っていた。
しかし高杉の周りは土方が思うよりも高杉に優しくないもののようだ。
土方自身も家族に恵まれず、今でも血縁者に会いたいとも思わない。
それでも11歳の時に親戚宅を飛び出して近藤が営む旅館を手伝うようになり、そこでは優しさと厳しさを持ってここまで育ててもらった。
だから人に優しくすることも叱りつけることもできる。
それを他人から与えられたからだ。
高杉はそれを与えられることなく育ったのだろう。
しかし、それでも。
土方は高杉の頭を抱えながらそっと紫紺の髪に指を差し入れ「なぁ」と声をかける。
「なんだよ」
「俺の部屋に盗聴機とかあるのか?」
その問いかけに高杉は顔を上げて土方を怪訝そうに見返した。
「機械でも見つかったか?気になるなら業者を入れるが」
「いや、いい」
その言葉だけで充分だった。
あの日、土方の身体を気遣ってくれたこと。
無体を強いたと謝罪してくれたこと。
すべて他の誰の為でもない土方だけに向けてなされたことだと確認するためには。
高杉が部屋で忠告をしてきた時も盗聴機はないのかもしれないと思ったが、改めて高杉の口からはっきりと盗聴機などないと聞かされ、土方は妙に嬉しくなってしまう。
高杉は家族には恵まれなかったかもしれないが、ちゃんと妻への愛情を示せる人間だ。
仮の妻である土方にまで優しさと気遣いを向けてくれるのだから、本当の妻であればもっと愛情を持って接し、妻にとっては自慢の夫になるだろう。
土方は未だに怪訝そうに土方を見上げている高杉の頬を右手で触れ、親指でそっと眼帯を撫でる。
「高杉の妻になる奴は幸せだな」
土方が高杉を見つめながらそう言うと、高杉は隻眼を細めて土方を見返してきた。
「それはお前が今、幸せだって意味か?」
高杉の問いかけに土方は何も返さなかった。
正確には返さなかったわけではなく、返せなかった。
土方は今、高杉の妻としてここにいるが、元を正せば取引のために雇われた単なる仮の妻。
そんな土方に高杉の妻が幸せかという問いへの答えを返すことはできない。
返したい答えが間違いなく土方の胸にあったとしても、それを口にする資格はないはず。
土方は笑みを作りながら、返せない答えの代わりに高杉に触れるだけの口づけを送る。
少しずつ深くなる口づけに身を任せながら、後どれぐらい妻でいられるのだろうかと少しの憂いとともに土方は高杉の背に腕を回した。

✳✳✳

「寝不足っスか?」
作った弁当を手渡すため玄関先へと来た土方に、また子が朝の挨拶よりも先にそう声をかけてきた。
「え?なんでだよ」
「そこの廊下曲がるとき、欠伸してるのがみえたっス」
「よく見てるな」
「でも寝不足の割に肌がツヤツヤしてるっスね!羨ましいっス!」
また子は特に意識して言ってるわけではないのであろうが、高杉と日付が変わるまで過ごしていた土方にとっては違う意味に聞こえてしまう。
それを咳払いをして誤魔化しつつ土方はまた子に風呂敷で包んだものを手渡す。
「なんスか?」
「弁当だよ。弁当箱なんてないって言われたから正月でもねぇのに小さめの重箱につめといた」
「弁当っスか!というか土方って料理とか出来るんスね」
「まぁな」
旅館で働いていたときはたびたび賄い飯を作っていたし、子供のころから自分の食事は自分で作っていたためたいていのものは作れる。
ただ味つけが高杉の気に入る味かどうかは自信がない。
また子にそう告げると彼女は満面の笑みを浮かべて「大丈夫っスよ」と言い切った。
「晋助様がこの弁当を食べないわけないっス!」
力を込めてそう言ったまた子に少し疑問を抱きつつも、それを問いつめて彼女を遅刻させるわけには行かずそのまま送り出した。
その疑問は解決しなかったが、また子の言うとおり帰ってきた高杉から受けとった弁当箱はきっちり空になっており、土方は思わず笑みを浮かべながら毎朝の弁当づくりに勤しみ始める。
それを続けていると、屋敷内で土方を呼び止めて高杉との馴れ初めやここに来る前に土方が何をしていたのかを聞いてくる使用人がちらほら出てきた。
それに対して全員が親戚からのまわしものだろうかと呆れる反面、今更どちらでもいいかと土方は質問に対して当たり障りのない言葉を返し続ける。
それも弁当作りを始めて2週間ほどが経つとめっきりとなくなり、この頃には土方も料理長とともに朝食や夕食のメニューを考えるようになっていた。
栄養バランスや旬の食材については料理人たちには敵わなくとも、高杉の好みについては長年ここで勤めている彼らより土方の方が詳しかったからだ。
高杉が家で食事をしないせいもあるが、子供の頃の好みも解らないのかと尋ねると、料理長を始めとする料理人や使用人の大半は高杉家に勤め始めて10年に満たないものが多いのだと教えられた。
病弱だった高杉の父親が亡くなって高杉が後を継いだ際に大幅に入れ替えを行ったらしい。
高杉の左目のこともあるし、きっといろいろあったのだろうと当時の高杉を憂いつつ、土方は厨房内にある大きめの調理台に置かれた食材の中から高杉が好きな物を選んで指示を出していく。
そうしているとジーンズの後ろポケットに入れていた携帯電話が音を立てたため、それを取り出して発信者を確認すると、また子の名が表示されていた。
「もしもし。どうした?」
『あ、土方っスか。晋助様の机の上に茶色い封筒ないか確認して欲しいんスけど…』
突然にそう言われても、ここは厨房であり執務室ではない。
「ちょっと待ってろ。確認してかけ直す」
『頼むっス!』
通話を終えて、料理長に一言告げたあと執務室へと入ると机の上に大量の書類の間に茶色い2号封筒が挟まっていた。
これだろうかと手にとりながら、土方はまた子へ電話をかけてみる。
「もしもし、封筒あったけど、これでいいのか?」
『中身、会議用資料って書いてあるっスか?』
「見ていいか?」
『土方なら大丈夫っスよ』
また子に了解を得た後、中身を取り出すと、一番上になっていた紙の右上に会議用資料と書かれている。
「あぁ。書いてある。会議用資料って」
『よかったっスー!この前、私、間違えて決済用の書類に混ぜて晋助様に渡しちゃったみたいなんスよ。今から取りに行くっス!』
「取りに来るってお前は社用車で来るわけじゃないんだろ?だったら俺がそっちに持っていった方が早いんじゃないのか?」
『え?でもいいんスか?』
「あぁ。夕食の準備までにはまだあるしな」
しかも夕食の準備といっても作るのは料理人で土方は最終的に味の確認をするだけなのだ。
朝は弁当づくりがあるからまだいいが、日中に読書をしようにも書斎にある本もそろそろ読み終わってしまいそうであり、土方は毎日暇を持て余していた。
なのでまた子からの電話は渡りに船でかえって有り難くもある。
そうまた子に告げるとまた子も苦笑しながら『なら頼むっス』と言って電話を切った。
書類を手にもう一度厨房へと入って出かけてくる旨を告げ、ちょうど通りがかった執事にもそう告げると車を用意しましょうかと提案される。
気晴らしがてら散歩するからいいとそれを断り、執事やメイドたちに見送られながら土方は屋敷を出た。
なんだかんだと言って彼らに奥様と呼ばれるのも慣れてしまったなと思いながら会社へと向かう。
電車を乗り継いで会社へと到着すると、ちょうどビルの前で秘書の万斉を見つけた。
向こうも土方に気づいたようで少し驚いた後、土方が手に書類を持っているのを見て納得するような顔をする。
「また子でござるな。土方殿に持って来させるとは・・・」
呆れたような声音でそう言う万斉に「俺が持って行きたいって言ったんだよ」と苦笑する。
「家にいても特にやることもないしな」
そう土方が肩をすくめると万斉が「そうでござるな」と同意を示してくる。
「確か土方殿は旅館にいた頃は接客から事務仕事まで幅広くしていたのでござろう?それに比べたら奥方というのは退屈な仕事でござるな」
万斉の言葉を聞いた土方は小さく首を傾げる。
土方が旅館でしていた仕事内容は、万斉が言った通りで間違いはないのだが、それを万斉に説明したことがあっただろうか。
ここに来たときに旅館のいいところは話したが土方の仕事には触れた覚えはない。
「何で俺の仕事内容、知ってんだ?」
「晋助に聞いたでござる」
「高杉に?うちの資料でも調べたのか?」
「まぁ似たようなものでござるな」
万斉はそう答えながら何故か嘆息をついたため、土方は再び首を傾げる。
「どうかしたか?」
「いや。何でもないでござる。それよりも土方殿、今日の弁当に入っていた鶏の唐揚げ、通常の物よりとても美味しく思ったのでござるが隠し味でもあるのでござるか?」
「え?あぁ、あれは味噌に肉をつけ込んでって、何であんたが食ってんだよ」
「晋助が食べている横から拝借したでござる。また子はアスパラのベーコン巻きを奪い取るのに成功していたでござるよ」
そう話す万斉を土方は呆れながら見つめる。
「何やってんだ、あんたら」
「勝手に横から奪い取ると晋助が『俺の弁当に触るな』と子供のように怒るのでござるよ。それを見るのが面白くて拙者もまた子もやめられん」
そう言った万斉は楽しそうに微笑んでおり、昼休み中に行われる彼らの攻防が目に浮かぶようだった。
そのため土方は思わず笑ってしまう。
きっと万斉やまた子は家の使用人たちとは違って高杉に近しい人間なのだろう。
そういう人間が高杉の近くにいたことに土方はホッとする。
「土方殿のおかげでござるよ」
「え?」
「晋助はあまり人と必要以上に関わらない人間でござる。でも土方殿が来てからは少し丸くなった。つき合いやすくなったでござるよ」
つい今しがた万斉たちの存在にホッとしたというのに、万斉にそう言われると何と言葉を返せばいいか困ってしまう。
特に万斉やまた子は土方が高杉の仮の妻であることを承知しているはずであり、土方のおかげだと賞賛されても実感が湧かない。
「たぶん、俺のおかげとかじゃねぇよ。あいつは感情表現が下手なだけで、あんたたちのこと特別だと思ってると思うぜ」
家の中では土方がいても高杉の使用人に対する態度は変わらない。
しかし会社では弁当を片手におかずの取り合いをするのだから、高杉は万斉やまた子に気を許しているはずだ。
そう告げると万斉が驚いたようにこちらを見つめていた。
「何だよ」
「いや、少し意外でござった」
「何が」
「何でもないでござる。上でお茶でも出すでござるよ」
そう話題を変えた万斉を怪訝にみやった後、万斉に封筒を渡した土方は万斉が言った茶の誘いをみんな仕事中だろうからと断る。
少し残念そうな顔する万斉にヒラヒラと手を振ってきびすを返した土方は、明日の弁当のおかずは万斉やまた子に取られる分も考えて入れようと小さく笑いながら屋敷への帰り道を急いだ。


✳✳✳

そのちょうど二週間後、いつものように夕食の食材を選んでいると土方の携帯電話が鳴った。
万斉からの着信であり、何かと思って電話に出ると今から会社の方へ来て欲しいと頼まれる。
相変わらず特に予定もなかった土方は了承し、料理長に言いおいたあと、執事やメイドたちに見送られて屋敷を出た。
先日と同じ道順で会社へと向かい、ビルの中へと足を踏み入れた土方は初めてここに来たときと同じように受付に立ち寄った方がいいのだろうかとそちらに目をやり足を進める。
受付の前に立ち「すみません」と声をかけると受付に腰掛けている二人の女性のうち右側の方が笑みを浮かべて「総帥は執務室におられます、奥様」と返された。
名乗る前から目的場所を示され、しかも奥様と名指しされたことに気恥ずかしさを感じながらも何とか礼を告げた土方はエレベーターのボタンを押す。
エレベーターが降りてくるのは待っている間、数人の社員が土方に向けて挨拶をしてきた。
皆一様に土方を総帥の妻として把握しているようで、挨拶される度に居たたまれない気持ちになると同時に何故自分の顔を知っているのかと疑問に思う。
かすかに首を傾げつつ最上階へと到着したエレベーターを降り、高杉がいる執務室の扉をノックした。
すると入室の許可をする高杉の声が聞こえたため、扉を開けて中へと入ると高杉が驚いたような顔をして土方を見返してくる。
「なんだよ。呼んだのはそっちだろ?」
「呼んだ?誰がだよ」
「拙者でござる」
高杉の問いに隣の部屋から出てきた万斉が答える。
どうやら隣が秘書室になっているらしい。
「お前か。来島といいお前といい。勝手に俺の嫁を使うな」
「拙者はまた子と違って土方殿に荷物運びをさせたわけではござらん」
「ちょ、万斉先輩。人聞き悪いっスよ」
万斉の後ろからまた子もやってくる。
「何か大事な話があるって言ってたよな」
土方が電話口で言われた言葉を万斉に向けて投げかけると「そうでござる」と万斉は一つ頷き土方の前へと立った。
「晋助から聞いているかもしれぬが、そろそろ土方殿の手を借りなくてもいい段階に来ているでござる」
「え?」
土方の手を借りなくてもいいというのは妻を装う必要がなくなるという意味なのだろうか。
万斉は高杉から聞いているかも知れないと前置きをしたが、土方は高杉から何も聞いていない。
それが表情に出ていたようで、万斉はやれやれと言いたげな様子で「やはり土方殿には何も話しておらなんだでござるな」と呟いて小さく嘆息を吐く。
「てめぇ。俺が言うから黙ってろって言っただろうが」
高杉が語気を強めてそう言いながら万斉を睨むが、万斉は冷静な様子でその視線を受け止めた。
「そうは言うが、晋助。拙者たちがこの話をしたのはもうかれこれ10日も前だと記憶しているでござるよ。そうでござろう?また子」
万斉はそう傍らにいるまた子へ視線を投げかけながら同意を求める。
また子はちらりと気遣うような視線を高杉へ向けつつ「そう、だったかも、しれないっスけど」と曖昧な答えを返した。
そんなまた子の返答を万斉は気に留める様子もなく土方へと視線を戻し「土方殿」と呼びかけてくる。
それだけで土方は緊張で思わず身体を固くしてしまう。
どう考えても万斉がこの後に続けるであろう言葉は“もう役目を終えてくれ”といった内容の言葉しか思い浮かばない。
身構えながら万斉の言葉を待つ土方に向けられたのは「そろそろ旅館に戻りたいでござるか?」という土方の心情を尋ねるものだった。
てっきり通達のように一方的に御役御免を言い渡されるものだと思っていた土方は少し面食らう。
「戻って、いいのかよ」
意見を聞かれるとは思っていなかったため反対に相手に尋ねる形で確認を取ってしまった。
それに対して万斉が答える前に、高杉が「ダメに決まってるだろうが!」と怒鳴るように否定を示す。
高杉の方へと視線を向けると、いつの間にか椅子から腰を上げて身を乗り出して万斉を睨みつけていた。
高杉には役目を卸す気はないことがわかり、土方は思わず安堵の表情を浮かべてしまいそうになる。
しかしそれを悟られてはまずいとすぐに顔が緩まないよう引き締めていると「なるほど」と万斉が突然そう呟いた。
万斉へと視線を戻すと、一瞬、視線がかみ合ったが、すぐに万斉が高杉へと視線を向ける。
「しかし晋助。土方殿がここに来てからもう一月以上になる。そろそろ旅館の方から苦情が来てもおかしくは」
「うるせぇ!とにかくこの話は保留だ!わかったな!万斉!!」
万斉の言葉を遮るようにして高杉がそう怒鳴りつけると万斉は肩をすくめながら「解ったでござるよ」と従う様子を見せる。
高杉の一喝によって話の区切りがつき部屋に沈黙が訪れた。
それを壊すかのように高杉の机上に置かれた電話が鳴り響き、椅子に身体を戻した高杉は受話器を取ってその音を止める。
電話相手に向けて話し始めた高杉を見て、また子が秘書室に掛けていき、なにか資料を取って戻ってきた。
このままここにいても仕事の邪魔になるだろうと判断した土方は、万斉に向けて帰る旨を伝える。
すると電話中であるはずの高杉が土方を呼び止めた。
そちらに視線を向けると高杉送話部分を肩で押さえつつ「9時過ぎには帰る」と帰宅時間を知らせてきたため、土方はそれに少し驚いた後、苦笑しながら頷き返す。
電話での会話を再開した高杉を横目に部屋を出ていこうとすると、万斉が「下まで送るでござるよ」とついてきた。
エレベーターに乗り込むと少し沈黙が続いたが、土方は意を決して「なぁ」と話しかける。
「なんでござるか?」
「ホントにもう俺がいなくても大丈夫なのか?」
「その話でござるか。…そうでござるな。親戚連中も土方殿を晋助の妻だと納得したようでみな見合いへの興味はなくなったようでござる」
「男なのに?」
「妻が男であるなら晋助の血を引く後継者は生まれぬゆえ、ゆくゆくは自分たちの子供を養子にでもしようと考えているのでござろう」
グループの総帥というのはそれほど魅力あるものなのだろうか。
土方にはさっぱりわからない。
高杉を傍で見ていて、彼があまり楽しそうにしていないからかもしれないが。
そう土方が思っているとエレベーターが止まる。
いまだ一階には到着しておらず、同じく下へ向かうのであろう若い男が乗り込もうとして土方と万斉の姿を見て固まった。
「し、失礼いたしました」
そのまま下がってエレベーターから降りようとしたため、土方は怪訝に思いつつ閉まりかけた扉をボタンを押して開けてやる。
「下に行くんじゃないのか?」
「で、ですが・・・」
オロオロと視線をさまよわせながら万斉を見上げたその男に万斉は「気にしないそうでござるよ」と言葉をかけた。
「で、では、失礼します」
男は恐縮した様子でエレベーターに乗り込むがこれ以上ないほど緊張しているように見える。
その後も何度かエレベーターが止まり、乗り込もうとする社員たちが皆一様に土方と万斉をみて怯み、一緒に乗っている社員を見比べて万斉を見つめる。
そのたびに万斉が「大丈夫でござる」と言葉にするのを聞いた土方は首を傾げて万斉をみやった。
「ここの会社は秘書とエレベーターを共にしないとかいうルールでもあんのか?」
「拙者ではないでござる。晋助でござるよ。晋助はパーソナルスペースが極端に広い男でござるからな。拙者やまた子ですらもっと離れて乗れと端に追いやるゆえ、他の社員は怖がって同乗すらしないでござる」
「迷惑な奴だな。そんなにエレベーターが嫌ならあいつだけ階段でも使わせろよ」
「そんなことを言えるのは土方殿ぐらいでござるよ・・・」
呆れたような声でそういう万斉の言葉を聞きながら、土方は少しの違和感を感じる。
「高杉はともかく、何で俺まで遠慮されてんだよ」
「そりゃ土方殿が晋助の妻だと皆知っているからでござるよ」
それを聞き、土方はふと受付にいた女の態度を思い出す。
しかし土方がまともにビル内に入ったのは今日で二回目だ。
前回はビルの前でちょうど万斉をみかけたから中へは入っていない。
それなのに受付の女は迷うことなく土方を高杉の妻だと認定した。
不可解でならない。
「何で知ってんだよ。俺は一度しか社内を歩いてないはずなのに」
「何故って総帥である晋助を社内の真ん中で怒鳴りつけた上、その晋助から濃厚に口づけされた御仁をここの優秀な社員たちが見忘れるわけがござらん」
サラリと万斉の口から告げられた答えに土方は赤くなる顔を手で押さえながら俯く。
するとようやくエレベーターが下へと到着し、「お先にどうぞ」と社員たちに促された土方は顔を覆ったままエレベーターから降りた。
ビルの出入り口まで歩き顔の赤みが消えた頃、土方は覆っていた手を外して一つ息を吐き手のひらを強く握る。
そして足を止めて隣を歩く万斉に「さっきの話だけどさ」と話しかけた。
「さっき?社員がどうして土方殿を妻だと知っているかの話でござるか?」
「そっちじゃなくて、もう俺がいなくて大丈夫って話の方」
「そちらでござったか。それがどうかしたでござるか?」
「俺、このまま出ていくよ」
サングラスの奥にある万斉の瞳が驚きで見開かれるのを土方は感じる。
最初、ここを訪れたときはサングラスのせいで表情がわかりにくいと思った万斉のことも今はわかるようになった。
高杉と比べれば万斉と話す機会も少ないにも関わらずだ。
過ごす時間が少なかった万斉ですらそうなのであるから、日々をずっと傍らで過ごした高杉のことを理解し、しかも惹かれてしまうには一ヶ月は十分すぎる期間だった。
しかも社員たちが土方を高杉の妻だと思っているのならば、仮の妻である土方は余計に早く去らねばならない。
仮はあくまでも仮でしかなく、あれほど浸透させてはいけないような気がするのだ。
皆から妻として認識されて少し嬉しいと喜んでしまった自分を誤魔化すように、土方はいまだ驚いている万斉に言葉を続ける。
「旅館の方も気になるし、いつでもいいなら早い方がいいだろ?」
今日は引き留められたが、高杉の方からもうお前は要らないと言われる日はいつか必ず訪れる。
それを先伸ばしにするくらいなら、まだ傷が浅い内に自分から出ていった方が気持ちが救われるように土方には思えた。
「何か急ぎのことでもあったでござるか?」
気遣うように自分を見つめて尋ねてきた万斉に素直な心情を吐露するわけにもいかず単なる言葉の綾だと濁す。
「そうでござるか・・・。帰ったら晋助が怒り狂うでござろうな」
そう言って深いため息をついた万斉に土方は「ひとつ、伝言頼まれてくれねぇか?」と告げる。
「構わないでござるよ」
「高杉に、俺が幸せって意味だって伝えてほしい」
唐突な言葉であったためか万斉は首を傾げつつ「そういえば晋助にはわかるでござるか?」と尋ねてきた。
土方はそれに対して小さく笑う。
「さぁ?どうかな。あいつはもうあの時の会話なんて覚えてないかもしんねぇし。でも俺の自己満足みてぇなもんだからさ。頼むよ」
そういうと万斉は「わかったでござる」と神妙な顔で頷いた。
「ありがとな。送るのはここまででいい」
「しかし」
「俺はもうお前に送られる立場の人間じゃない」
土方がはっきりそう言い切ると万斉は少し考えた後、「では失礼するでござる」と軽く頭を下げて戻っていった。
それを見送った土方も止めていた足を進めてビルの自動扉へと向かい始める。
万斉に伝えたのは高杉に幸せかと問われたときに答えたかった言葉だった。
返したくとも返せなかった言葉。
もし土方がそれを許される立場であれば、土方は迷わず幸せだと高杉に答えていたはず。
万斉から伝言を聞いた高杉が、それを理解してくれなくてもそれはそれでいい。
高杉は将来、本当に高杉の妻となった人間に答えをもらえばいいのだから。
この一月の間、高杉が土方に見せた優しさや気遣いは土方が仮の妻であるからこそ向けられたものかもしれない。
しかしその全てが偽りのものだとは思えないし思いたくなかった。
激高して土方を殴った時もそうだ。
食事をするよう土方が強要したのが気に入らなかったのではなく、土方が絶対に解りあえないと言ったことに傷ついたのだと今なら理解できる。
他人から見たら贅沢なほど恵まれた環境にいながら、どうしようもないほど孤独を抱いた高杉がどうか幸せになりますように。
そう切に願いながら動かしていた足を止めて空を見上げる。
久しぶりに見上げた空は澄み切った快晴で、帰ったら旅館の仕事も捗りそうだなと土方はこみ上げそうな涙を大きく深呼吸をしてやり過ごした。
「さぁ、帰るか」
自分にそう言い聞かせるようにして土方は仕事場兼自宅でもある旅館へと足を向けた。

✳✳✳

土方が久しぶりに旅館へと続く道を歩いていると、旅館の門前を掃除していた従業員が目に入った。
あちらも土方のことに気がついたようで、慌てた様子でこちらへ向けて走ってくる。
「土方さん!よかったぁ!もう帰って来ないのかと思いましたよぉ!」
涙をにじませて抱きついてくる男の頭上に土方は拳骨を一つ振り下ろす。
「山崎。てめぇ、お客様がいるかもしれねぇ場所で騒ぐんじゃねぇ」
「いてて。すいません」
そう軽く頭を下げながら涙を拭っている男は名を山崎といい、見た目は地味だが仕事ぶりはかなり優秀で何事も器用にこなせる人材であるため、土方が特に目をかけている従業員だ。
そのため、高杉の提案に乗ってここを出るとき、土方が請け負っていた旅館内の事務仕事はすべて山崎に引き継がせた。
山崎の能力であれば土方が一ヶ月ほど不在であっても特に問題はなかったであろうはずなのに、ずいぶんな歓迎ぶりだと土方は首を傾げる。
「なんか問題でもあったのか?」
「いえ。仕事上は特になにも」
サラリと答えてきた山崎に土方は思わず眉根を寄せてしまう。
「だったら大げさな反応してんじゃねぇよ」
「そりゃ大げさにしたくもなりますよ。あまりに長いんでもう帰って来ないのかと思いましたよ。とにかく帰りましょう。みんな待ってますから」
土方はそう山崎に背中を押されて道を進み、門をくぐって砂利が敷き詰められた飛石の上を歩いた。
ガラリと音を立てて引き戸を開けると仲居の客用への声かけの途中で「あら」という驚きの声を上げる。
「土方さん。お帰りなさい。今日、お戻りだったんですね。旦那さんは事務局にいらっしゃいますよ」
声をかけてきた仲居に礼を告げながら靴を脱いだ土方は山崎に向けて靴を従業員用の下駄箱へしまって置くよう指示を出す。
久しぶりの畳の感覚を足の裏に感じながら土方はフロントへと入り、そこから奥につながる事務局へと進んだ。
中には机に向かっている近藤がおり、普段であれば精悍でほがらかな顔を神妙に歪めながら伝票を睨みつけている。
「睨んだって答えは出て来ねぇよ、近藤さん」
「え?」
振り向いた近藤は目を見開いてあからさまに驚いた表情を見せた。
「ただいま、近藤さん」
「トシ!?え?ホントに?ホントに帰ってきたのか?トシ」
「あぁ。帰ってきちゃまずかったか?」
「まさか!」
勢いよく左右に振られた近藤の首を見て土方はホッと息をつく。
あまりにも不在が続いたためにそれを理由にクビになってしまうのではないかという土方の心配は払拭された。
「ならいいんだ」
土方は近藤に向けて笑みを浮かべると壁に掛けられたホワイトボードへと視線を向け、そこに書かれた宿泊予定者数と今日出勤している仲居の人数とそれぞれの担当等をざっ確認する。
そうしていると山崎もここへとやってきて土方に向けて「一度、仲居頭と板長を呼びますか?」と尋ねてきた。
朝一番に彼らに対して申し送りをすることも土方の仕事であったからだろう。
しかし昼をいいほど過ぎた今の時間であれば、今日分の仕事の振り分けなど各自で把握していて当然であろうから必要ないとそれを断る。
山崎と会話をしている間も近藤の視線が自身の背中へと注がれていることに気づいた土方は、そちらへと視線を向け「どうした?」と尋ねる。
「トシ。もしかしてお前、高杉さんに黙って勝手に帰ってきたわけじゃないよな?」
心配そうな表情で尋ねてくる近藤に土方は思わずドキリとする。
万斉にはちゃんと告げてあるため勝手に出てきたわけではないが、高杉にはきちんと話していない。
本当であれば高杉にも言うべきなのだろうが、電話の最中にも関わらずわざわざ帰宅時間を教えてくれた高杉を前にしたら、きっと決心が鈍ってしまう。
ここへと向かう道すがら、携帯電話を睨みつけながら高杉にメールで世話になったと知らせるべきかとも考えた。
しかしやはりできなかった。
高杉が怒ることが心配なのではない。
そうであればまだ心が救われる。
それよりも辛いのは高杉から何の問題もないといった様子で淡々とした役目の終わりを確認する事務的な返信が来ることだ。
それが怖くて高杉にメールを送ることもできず、更にはいつか来るかもしれない高杉からの連絡すら怖くて携帯電話の電源を落としてしまった。
ジッとこちらを見つめる近藤にそんな心情まで伝わらないであろうが、なんだか見透かされてしまいそうで土方は思わず視線を背ける。
「大丈夫だよ。ちゃんともう役目は終わったってお墨付きをもらったからさ」
「それは、高杉さんにか?」
「なんでしつこく確認すんだよ!ちゃんと大丈夫だって言ってんじゃねぇか!」
念を押すように問いかけを繰り返す近藤に土方は思わず振り返りざま感情的に言葉を返してしまう。
「やっぱり高杉さんには黙って帰って来たんだな。お前らしくないぞ?トシ。仕事を投げ出して帰って来るなんて」
ため息混じりにそう言葉を発する近藤に土方は「投げ出してねぇよ!」と声を張り上げて反論する。
「もう終わってもいい時期に来てるって今日言われたんだよ!あいつもその場にちゃんといた!これで充分だろ!」
土方はきびすを返して事務局を後にしようと歩き出す。
「こら、トシ!どこに行くんだ」
「仕事着に着替えてくるんだよ!」
引き留める近藤の声を振り払うようにして土方は半ば駆け足で廊下を進みながら従業員用のロッカーが並ぶ部屋へと入る。
土方が自身の名が書かれたロッカーを開けると従業員の制服である作務衣がかけられており、それには綺麗にプレスされて埃がかぶらないよう密閉式のビニールまでつけられていた。
自分でした覚えがないため、おそらく山崎が気を利かせてやっておいてくれたのだろう。
一ヶ月以上もそのままにしていたため、最悪、新しい制服を出そうかと思っていた土方だったが、その必要はなさそうだと一つ息をつく。
洋服を脱ぎ手早く作務衣へと着替え終えた土方は、ロッカーの中から仕事用の腕時計を取り出す。
文字盤が大きく見やすいその時計の針は今の時刻を16時半と示していた。
土方はそれを目視するだけでなく口でも「16時半か」と声に発して確認する。
ちょうどそれは高杉の屋敷では料理長を中心に夕食の仕込みをし始める時刻。
今日は和食にすると言っていた料理長の言葉を思い出す。
最近わかったことなのだが、高杉は洋食よりも和食が好きで、アルコールもワインよりも日本酒の方が食が進む。
そのため夕食は主に和食へと移行し、食材やメニューだけでなく調理法なども土方と料理長が話し合って高杉の好みに合わせようとし始めたばかりだった。
そのため少し気にかかりはするものの、料理長は洋食が専門ではあっても和食もそれなりに得意だと話していたし、土方の不在が彼の仕事に影響することもないだろうと思い直す。
土方は余計なことは考えないようにしようと軽く両頬を手で叩いてロッカーを閉めたあと、部屋を出るため扉を開けた。
すると扉近くに山崎が立っており、そのことに土方は少し驚いて身をのけ反らせる。
「何してんだ、てめぇ。何か用か?」
「いえ。大したことじゃないですけど、旦那さんが何か失言したんだろうかとオロオロしてましたよ」
苦笑しながらそう話す山崎に土方は「あー」と気まずげに視線を剃らす。
「近藤さんは悪くねぇ。俺がカッとなりすぎた。後で謝っておく」
本当であれば今すぐ謝った方がいいのだろうが、高杉のことをこれ以上聞かれても困るため敢えてそう告げて歩き始めた。
それが山崎にどう伝わったのか、山崎がはっきりと小さく笑い声を漏らすのが聞こえたため、土方は足を止めて怪訝な表情で山崎を見返す。
その視線を受けた山崎は笑みを浮かべたまま「いえね」と土方と視線を合わせた。
「旦那さんより高杉さんの方が特別になっちゃったんだなぁと思いまして」
「は?なんでだよ。ありえねぇだろうが」
「いいえ、あり得ます。いつもの土方さんだったら、すぐに旦那さんのフォローに行ってますよ。それを後回しにしたじゃないですか。急ぎの仕事もないのに」
「特に深い意味はない」
土方は小さく舌打ちをし、止めていた足を再び動かし始める。
「土方さん」
「なんだよ」
イライラとした気分を隠すことなく振り返りざま山崎を睨み付けると、山崎はニコリと笑みを返してきた。
「これも俺的には大したことじゃないんですけど」
そこで言葉を止めた山崎に土方は足先で畳を踏み鳴らして苛立ちを示しつつ「さっさと言え」と先を促す。
「旦那さん、昨日の昼間に高杉さんと電話で話したばかりなんだそうです。その時には高杉さん、土方さんのこと何も言ってなかったらしくて」
「おい、ちょっと待て。何で近藤さんが高杉と電話してんだ?」
山崎の言葉を土方が遮ると山崎は「あぁ」と呟きつつ小さく頷いた。
「うちって高杉さんの会社から資金援助をしてもらってるじゃないですか。でも今回の援助は会社経由じゃなくて高杉さんの個人名義だったんですよ」
「個人名義?なんでだよ」
「ね?不思議でしょ?わざわざ変更した理由が気になったんで旦那さんに確認するよう頼んだんです。それが三週間くらい前ですかね。それ以来、何度か電話あるみたいですよ。内容はいつも土方さんの話だったらしいですけど」
「俺の?旅館のことでか?」
「さぁ?その辺は旦那さんに聞いてください。言ったでしょう?俺にとっては大した内容じゃないんです。敢えて土方さんに伝えたい内容でもないですしね」
そう言うと山崎は「仕事に戻ります」と軽く頭を下げて立ち去っていった。
土方はその背中を見送りながら、どちらに足を向けようか迷う。
仕事に向かうのであれば方向的には山崎が向かった先に行くべきであるが、なぜか反対側へと向かいたい気持ちが湧いてくる。
反対側は先ほど土方が歩いてきた方向であり、かつ事務局がある方向。
そこを避けようとここへ来たはずなのに今はそこに行きたい。
避けようと思った理由も行きたいと思う理由も同じだ。
高杉のことを誰かに聞かれたくないが、自分は聞きたい。
そう思いながら踏み出した足に土方は思わずため息を漏らす。
「これじゃぁ特別云々ほざいてた山崎のことを否定できねぇな」
そう呟いたあと、土方が足を早めてたどり着いた場所で「あれ?」と驚きの声を上げられる。
「さっきはごめん。近藤さん」
先ほど怒鳴ってしまった非礼を詫びると近藤は気にするなと大きく笑った。
「にしてもザキの言った通りだったな!」
「山崎の?」
「あぁ。あいつ、トシはきっとここに戻ってきて高杉さんとの会話を聞きに来るって予言めいたこと言ってお前のこと追いかけていったんだよ」
土方がここへ来ることを見越してあの話をしたらしい山崎に、土方は近藤の前ではあるが大きく舌打ちをして顔を歪める。
「ははっ!あんまザキを怒ってやるなよ。あれでいっつもお前のためだけに動いてる奴だからな」
「ふん!どうだかな」
土方はそう言い捨てると近藤の前の椅子へと腰を下ろし、机の上に広がっている伝票を手早く仕分けし始めた。
近藤も同じ作業を始めるが、一枚一枚内容を確認しながら分類するために土方と比べてスピードが遅い。
いつもの近藤であれば土方に任せてしまう仕事であるはずだが、今日は根気よく仕分けを続けていた。
「今回からあいつ名義で援助されたんだって?」
「あぁ。鬼兵隊グループは小規模旅館の提携から手を引く方針で決まったらしくてな。だから会社が使用してる銀行経由じゃなくてあの人が個人的に援助してくれたそうだ」
「なんでうちにだけ?」
「個人的にこの旅館が気に入っているからだって言ってたぞ」
嬉しそうにそう話す近藤に土方は「ふーん」と相づちを打ちながら嘘だなと心中で呟く。
初めて会社を訪れたとき、旅館の名前と特徴を数多く伝えたというのに高杉は何の反応も示さなかった。
覚えてもいない旅館を気に入っているなどありえない。
旅館にて近藤に土方を借り受ける旨の説明をしていた胡散臭い紳士然とした高杉の姿が土方の脳裏に浮かび、人の良い近藤は電話でも高杉に言いくるめられたのだろうと小さく嘆息を吐く。
仕分け終えた伝票を揃えつつ、土方は机の端にあった電卓を引き寄せ、カタカタと数字を打ち込み始めた。
電卓に触れるのは一月ぶりだが、特に違和感もなく指が動く。
土方は自身の指と目に入る数字に神経を走らせながら「あいつから何度か連絡があったらしいな」と近藤へ問いかける。
その話を聞きたくてここへ来たのだが、最初にそれを指摘をされたこともあり、高杉のことを聞きたがっていると思われないようさりげなく話題をふった。
これが山崎であれば訳知り顔な笑みを返してきそうだが、近藤はそういった機微に察しがいい方ではないため明るい笑みで「そうなんだよ」と頷く。
それに少しホッとした土方は近藤が先の言葉を続けるのを待った。
「山崎に言われて電話して以来、週末に高杉さんからトシの不在のせいで旅館に困ったことはないかって確認する電話が来るようになったんだ」
やはり旅館の話だったかと土方は曖昧な伝え方をしてきた山崎に悪態をぶつけたい気持ちになりながら計算した数字と帳面の数字を見比べる。
同じ数値になっていることを確認し、次の伝票の束へと手を伸ばしかけたとき、不意に近藤が「トシの得意料理ってなんだっけ?」と尋ねてきた。
「得意料理?考えたことねぇけど。なんだよ、急に」
手を宙に浮かせたまま止め、土方は唐突な質問をしてきた近藤を怪訝に思いつつ視線を向ければ、なにか真剣に考えている様子だった。
「いやな。昨日も高杉さんから変わりないかって電話があってさ。まぁそれは挨拶みたいなもんだからすぐ話は終わって、トシが高杉さんに作ってる弁当の話をしてたんだけど」
「弁当!?あいつ、俺が弁当作ってること話したのか!?」
「え?うん。毎日作ってもらってるって」
土方の声に驚いたのか近藤は目を丸くしながら首を傾かせたが、土方はそのまま机に突っ伏した。
近藤には土方は仕事の手伝いをするために高杉の元にいくと話したはずだ。
それなのに毎日せっせと土方が高杉に弁当を作っていたと聞いておかしいと思わなかったのだろうかと土方は頭を抱える。
「それにしても高杉さんって大企業のお偉いさんの割りに気さくな人なんだな。電話はたいてい昼休みにかけてきてくださるんだが、時おり部下の人と弁当の取り合いしてるみたいでさ。電話の向こうで"俺の弁当に触るんじゃねぇ"って騒いでるのが聞こえたよ」
そう楽しげに話す近藤に土方は顔をゆっくりと上げ、それでも近藤の方に視線を合わせないように伝票を目で追う。
「あーうん。そうらしいな。万斉が、高杉の部下の奴がそう言ってた」
そう言葉を返しつつ、仕分けを終えた伝票をガサガサと意味もなく回収しながら中身に目を通すしぐさをするが、内容が頭に入ってこず、ただ目に入れてそれを傍らに置くという作業を繰り返す。
「それでさ。その時に話題になったんだよ」
「何が」
「だから、お前の得意料理。俺は豚汁だと思うんだけど、高杉さんはお前が作った豚汁を食べたことないから知らんって言うんだよ」
「そりゃ弁当には汁物つけねぇしな」
「夕食に作ったりしないのか?」
「あそこには専属の料理人がいんだよ。俺は食材決めたりメニュー考えたりするだけだ」
「へぇ。ん?専属の料理人いるのに何でトシが指示してんだ?」
「俺の方があいつの好きなもの知ってるからって料理長が」
その問いに答えながら、途中でハッと気づいた土方は伝票を見るという作業を止めて「いや違う!間違えた!」と近藤へ視線を向ける。
近藤は土方の動揺を不思議そうに見つめており、「なに慌ててるんだ?」と首をかしげた。
「あーいや、別に…」
思わず口ごもる土方に近藤は笑みを向けてきた。
「それだけお前の能力を料理長も高く評価してくれてるってことだろ?俺としても鼻が高い!!」
近藤の笑みを見つめながら土方は料理長に"奥様ならば大丈夫"と太鼓判を押されたことを思い出す。
土方自身の能力ではなくただ高杉の嫁だからという信頼から任されたのだとは目の前で満足そうな顔をしている近藤には言えず曖昧な言葉を返した。
すると近藤が「それで?」と先を促すような言葉を投げ掛けてくる。
「それでって?」
「だからぁお前の得意料理!」
「いやさっきも言ったろ?考えたこともねぇって」
「じゃぁ好きな料理は?」
「好きな料理?」
近藤に聞かれて脳裏にすぐさま浮かんだものがあった。
おそらくこれも豚汁と一緒で高杉は食べたことのないものだろう。
正確には高杉も食べたことはあるのだが、弁当には入れたことがないので高杉が味を知っているわけがない。
「…鶏肉のマヨポン炒め」
ポツリと呟いた土方に近藤は「あー、あれかぁ!」と大きくうなずいた。
「賄いでよく食べたが、ご飯が進んで美味かったな!」
嬉しそうな近藤に土方も穏やかに笑みを浮かべながら「マヨネーズを油がわりにして炒めるのがコツだ」と誇らしげに話す。
「それにしても偶然だな」
「何がだよ」
「高杉さんもそれが一番好きだって言ってたぞ?あんな美味いもの初めて食べたって」
土方は思わず息を飲み、一瞬言葉につまるがすぐに「はは、まさか」と乾いた声を口から漏らす。
「いやホントだって。俺、ちゃんと聞いたし。あれなら冷めても美味しいから弁当にピッタリだよな!」
納得したとでも言いたげな満ち足りた表情で何度も頷く近藤を土方はぼんやりと見つめる。
あの料理は弁当には入れていない。
あれを高杉が食べたのは、視察でここを訪れた高杉がふらりと偶然に厨房へ顔を出したとき。
そこで賄いを作っていた土方に高杉は美味そうな匂いがするなと声をかけてきた。
世辞なのだろうと思いつつ、土方が食べてみるかと尋ねると、案の定、高杉から返ってきたのは「いや結構」という拒絶。
予測していた通りの反応に土方も「そうですか」と返すと高杉に意外そうな顔をされた。
何が気に入ったのか高杉がやはり食べると言い出したため、それを怪訝に思いながらも土方は自信作の鶏肉を高杉に食べさせてやる。
すると妙に嬉しそうに美味いと感想を言われてしまい、その顔に思わず目が奪われた。
あの瞬間からこの料理は土方にとって特別になったが、それは高杉の記憶には残っていないはずだ。
旅館の名前も土方のことも何もかも。
会社を訪れた際、高杉は覚えていなかったではないか。
それでも心の片隅で、もしかしてという期待がこびりついてどれだけ否定しようとしてもそれを拭えない。
たとえ高杉が土方のことを覚えていて、土方のために交換条件を出して、この旅館を救ってくれたのだとしても。
土方はこれ以上、高杉の傍にはいられない。
仮の妻で居続けるにはあの場所は居心地がよすぎるのだ。
「え?トシ?どうした?なんか泣きそうな顔してるぞ」
「何でもねぇよ。そろそろ夕食の時間だろ?配膳の手伝いに行ってくるな」
土方は少し顔を俯かせながら席を立ち、呼び止めたそうな表情をしている近藤を見ないようにして部屋を出た。
配膳作業をしているであろう仲居たちの元へ向かおうと土方が足を進めた瞬間、玄関先から「おい」という聞き覚えのある声がかけられる。
「え?おま、なんで?」
土方は驚きで目を丸くしながらその人物を凝視する。
仕立てのいいスーツと高級な革靴。
暗めな紫色の髪に端正な顔立ちと左目の眼帯。
上から下を何度確認しても、そこに立っているのは高杉本人だった。
呆然としていた土方がハッとして自身の腕時計を確認すると、今の時刻は先ほど確認した通り17:30過ぎ。
ここの旅館は夕食の始まりが19:00なのでそろそろ準備をしないとと思ったのだから間違いない。
17:30といえばまだ高杉は仕事中のはず。
なぜここにいるのかと見やれば隻眼を細めて笑みを返された。
「料理長から苦情の連絡が来た。嫁の帰りが遅くて夕食の準備が出来ねぇってな」
「へ?いやでも、俺、万斉に」
「あぁ。伝言聞いた」
そういいながら高杉は靴を脱いで畳へと足を上げ、そのまま土方へと近づいてくる。
土方の脳内ではここから離れろとの指令が激しい心音とともに出されていたが、身体が言うことを聞かず、近づいてきた高杉に腕をとられた。
触れられた腕に反応を示そうにも、その前に高杉が土方を引き寄せて抱き込み唇を塞いでしまったため、土方は何もできずにただ目を見開かせる。
唇はすぐに離れていき、土方が固まったままの状態で高杉を見やると、高杉は常にないほど上機嫌のように土方には見えた。
土方が勝手に家を出たことに怒っている様子は全く見られない。
しかしそれは土方が予想していたような、土方に対する無関心が理由というわけではない。
それはここに高杉が来ていることからも明らかだ。
上機嫌な高杉は口許に笑みを浮かべながら土方の唇を指でなぞり「もう一回言えよ」と言ってきた。
「言うって、何を?」
「俺の嫁になる奴は幸せだなってよ」
思わず息をつめた土方に、隻眼を細めた高杉が再び唇を寄せて何度も軽く合わせた。
「そしたら俺もまた聞いてやる。それはお前が幸せって意味かってな。だから伝言なんかじゃなく直接答えを聞かせてくれ」
唇を触れあわせたまま囁くように話す高杉の肩に土方はそっと手を置いて高杉の身体を自身から離すように軽く押して高杉と視線を交わす。
「俺には、その資格がない。解るだろ?」
「解んねぇな。おまえ以外に俺の嫁が幸せかどうか答えられる奴はいねぇ。今もこれから先もお前しかいねぇんだよ。お前こそ解んねぇのかよ」
まっすぐに土方をとらえる隻眼がいつもと変わらない。
いつもと同じ、土方に対する優しさ、気遣い、ある種の熱が込められた瞳。
それが土方という仮の妻へ向けられたのか土方自身に向けられたものなのか土方には解らない。
ただこうして高杉の瞳を見つめ続けていると、自分こそが本当に高杉から愛されているのだと錯覚を起こしてしまう。
都合のいい勘違いのはずなのに。
じんわりと瞳に水の膜が張るのを感じるのと同時にその瞼に優しく口づけが落とされる。
「お前じゃなきゃ俺は交換条件に嫁になれなんて言わなかった。お前だから頼んだんだ。お前以外の嫁なんて俺ぁいらねぇんだよ」
「…でも、お前は何も言わなかったじゃねぇか。俺が旅館の話をしても覚えてないみてぇな顔してたくせに。今さら何なんだよ」
「あれは」
高杉は少し躊躇いを見せながら口をつぐんだかと思うと、土方から視線をそらしながら小さく言葉を発しているようだが、土方の耳には届いてこない。
「何だよ。聞こえねぇんだけど」
「だから、お前ェはここの主のことが好きなのかと思ったんだよ」
今度はちゃんと聞こえてきた言葉に土方は虚をつかれたように呆けた顔をして高杉を見つめる。
「ここの主って近藤さんのことか?」
「あぁ。お前ェ、俺がここに視察に来る度、旅館のいいところに併せて近藤の人の良さとか懐が大きいとことか紹介しまくってたじゃねぇか」
心底忌々しいとでも言いたげに舌打ちをする高杉に土方はゆるゆると自身の口角があがるのを感じ、そしてとうとう小さく笑い声を漏らした。
「笑うんじゃねぇ。そもそも今度視察に来たときに俺の方から交換条件として嫁になるよう持ち掛けるつもりだったんだ。それなのにお前の方から直談判しに来るから予定が狂った」
未だに笑みを浮かべていた土方の唇を高杉が親指と人差し指で軽く摘んで引っ張る。
「だいたい普通に考えてみろよ。アポなしの人間が大企業の総帥様に会えるわけねぇだろうが」
高杉の言葉に土方は資金援助を頼みに高杉の会社を訪れた日のことを思い出す。
アポイントメントの確認をされ、ないことを告げると受付で難色を示され、しつこく食い下がってようやく秘書に連絡を取りますのでという対応をされた。
その秘書から総帥室へと通せと言われたので最上階に向かうよう受付左手のエレベーターを指し示されたことを思い出す。
「ん?ってことは万斉やまた子は」
「知ってるさ。あいつ等も協力者だからな」
そう言われると万斉やまた子の言葉の端ばしに抱いた疑問が解決されるような気がした。
思わず脱力しながら深いため息をつく土方に高杉は笑みを浮かべながら摘んでいた手を離してそこを何度も撫でてくる。
「今度から里帰りしたきゃ万斉じゃなく俺に言えよ」
それに素直に解ったというのが癪だった土方は「考えとく」とふいっと左側に顔を背けたが、高杉には何の威力もないようで右頬に口づけを落とされた。
その頬を押さえつつ高杉を睨みつけると背後で「え?これどういうこと?」という近藤の声が聞こえ、土方はようやくここが旅館の玄関先であることを思い出す。
幸い客の姿は見えないが、仲居数人が驚いた表情でこちらをみつめており、背後を振り向けば目を丸くしている近藤とその傍らに不満そうに口を尖らす山崎がいた。
「ねぇ。ザキ。俺の目がおかしいの?トシが高杉さんにチューされてるように俺には見えるんだけど」
「安心してください。俺にも同じものが見えてますから。だから言ったじゃないですか。あんたと高杉さんの会話は舅と娘婿が張り合ってるみたいで感じ悪いですねって」
「え?完全にお前の冗談だと思ってたんですけど」
「そんなんだからゴリラって言われるんですよ」
「え!?そんなこと誰が言ってるの!?」
目を見開いて傍らの山崎を見やった近藤に高杉が近づき、その高杉に腰を抱かれている土方も近づくことを余儀なくさせられる。
「話し中に失礼。妻との意志疎通が不十分で迷惑をかけたな。今日はこのまま連れ帰るが、今後も妻の不在で何か問題があったら夫である俺に遠慮なく言ってくれ」
相変わらずの紳士然とした胡散臭い笑みを浮かべて話す高杉を横目でみやりつつ土方は顔を歪めた。
高杉が妻と夫の部分をあからさまに強調し、勝ち誇ったような顔をしながら話すのが何となく気に入らない。
「おい。勝手に話を進めんな。つーか俺は男なんだから妻とかおかしいんじゃ」
「いいから帰るぞ」
「ちょ、俺まだ着替えてねぇ」
「そこの地味な奴。こいつの荷物、置いたままの私物も含めて後日全部まとめてこちらに送り届けてくれ」
引きずるように歩きだした高杉が背後にいる山崎にそう指示を出したため、土方も後ろを振り返ると不本意と顔にしっかり書かれたような表情の山崎が「わかりました」と言葉を返してきた。
「こ、近藤さん」
「なんだかよくわからんが、仕事の続き頑張れよ。トシ」
山崎の隣にいる近藤にも視線を向けて声をかけたが笑顔で送り出されてしまった。
そのため土方は仕方がないと諦めて高杉と歩きつつ旅館の門を出ると「あ」と小さく声を漏らし、作務衣のポケットに入れていた携帯電話を取り出す。
電源を落としたままだったそれに電源を入れ、起動するとすぐにいくつかのメールが送られてきた中で目当てのものを見つけて開いて目を通す。
「どうした?」
傍らから覗きこんできて尋ねてきた高杉に「急用を思い出した」と一言返した後、メール画面を閉じてアドレス帳を開いて電話をかけた。
「もしもし。連絡遅くなってすみません。メール確認しました。これで大丈夫だと思います。でも今日のメニューだったら餡掛の餡はとろみ多めで、穴子の焼きは甘めで身の柔らかさ重視でお願いします。では」
通話を終わらせた土方がふと隣をみやると高杉がニヤニヤと笑みを浮かべて見つめていた。
「なんだよ」
「急用って俺の食事の話か」
「夕食の準備で料理長が困ってるって言ったのお前だろ?」
「まぁな」
そう笑って運転手に扉を開けさせている高杉に向けて、土方は「それに」と続ける。
すると高杉は「それに?」と先を促しながら土方の腰へ腕を伸ばし、車に乗るよう腕に力を込めた。
土方はその腕に逆らうことなく車へと乗り込み、ついで乗り込んできた高杉に向けてふわりと微笑みかける。
「お前の体調管理は俺の仕事だからな」
土方はそう言い切って傍らの高杉に少し身体を寄せてその唇を塞ぐ。
口づけの合間に高杉の「違いねぇな」という嬉しそうな声が聞こえたかと思うと、力強く腰を引き寄せられた土方は高杉から深い口づけをおくられた。


END
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